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第六章 第七話
夜中、健常者が、障害病棟に救急搬送された。その連絡が、アナとカズのスマホにも、届いた。
「行かなきゃ」
アナが、目を覚ました。
「義助は、寝かせておこう」
カズも、身支度を整えて、障害病棟に向かった。
「カズは、ともかく、どうして、私にも連絡が来たんだろう? しかも、患者さん、健常者でしょう?」
アナが、訝しんだ。カズは、手術の補佐をするので、連絡が来てもおかしくないが、アナにも連絡が来た理由が、不明だった。
「分からないけど、急ごう!」
「うん!」
アナとカズが、障害病棟に着いた。
「どうして、健常者が、障害病棟へ?」
アナが、不思議そうに看護師に聞いた。
「患者さんの娘さんが、聾者なんだ。ここには、託児所があるから。だから、アナにも連絡をしたの。面倒見てくれる?」
救急患者の男性の娘の笑美は、聴覚障害者だった。
「もちろん」
アナが、納得して、託児所で笑美の面倒を見た。アナは、手話ができなかったので、笑美と筆談で交流した。
アナの筆談:〈大丈夫だよ!〉
笑美の筆談:〈ありがとうございます。こんな時間にすみません〉
アナの筆談:〈この為にここへ来ているから。生き甲斐なんだ〉
笑美の筆談:〈嬉しいな〉
アナと笑美は、しばらく筆談を交わしていた。
手術は、数時間続いた。
カズが、託児所に顔を出して、
「手術は、成功したよ」
と、伝えた。
「良かった」
アナが、ホッとした。
笑美は、ぐっすりと眠っていた。
「笑美ちゃん、とても不安そうで……」
アナが、笑美のことをカズに伝えた。
「明日のオーディション、インターネット中継されるんだ。笑美ちゃんに見せてあげてくれ」
カズが、オーディションに参加することを決意した。
「分かった。期待している」
「期待しなくて良いんだ」
「頑張れよ~」
「ハッハハハハ」
もう明け方だったが、アナとカズは、託児所で笑美とともに、浅い眠りに就いた。笑美の父の容体は、安定していたが、意識は、まだ回復していなかった。
早朝、カズが、一人黙々とネタの練習をしていた。
「お笑い芸人になるの?」
アナが、寝ぼけて、カズに質問した。
「それが、目的じゃないかな。ただ、患者さんを笑顔にしたい。その為の修行みたいなもの。とにかく、オーディションに参加しないで諦めたくないんだ」
*
朝、アナと義助が、寮の食堂で、朝食を食べていた。
「カズは、オーディションに行ったよ」
アナが、義助に報告した。
「どのくらい本気なんだろうね?」
「熱意はあるけど、芸人になる訳じゃないみたい。やっぱり医師になりたいんでしょう」
「良い成果を祈る」
午前中。アナが、託児所で、笑美にインターネット中継を見せた。
「あ、カズだ!」
アナが、思わず声を上げた。
カズの出番が、来た。
カズが、必死にギャグを披露していた。
「スベってごめんね!」
カズは、スベると、そう叫んで、両ひじを左右に張って、両手の拳を握って、その拳を胸の前方で上下に二回振った。カズは、スベる度に、そのポーズを繰り返した。
アナの筆談:〈あははは! 本当にスベりまくっている! それに、何あのポーズ!〉
アナが、大受けしていた。
笑美の筆談:〈手話だと思います〉
笑美が、真剣に見入っていた。
アナの筆談:〈手話?〉
笑美の筆談:〈はい。ひたすら『がんばれ』と……〉
笑美が、答えた。
カズは、スベる度に、『がんばれ』と、手話で笑美を勇気付けていたのだ。
「この子たちの為に」
パラリンピックには、聴覚障害者のクラスがなかった。だから、カズは、笑美だけでなく、聴覚障害者の為に手話をした。これが、「手話芸人」誕生の瞬間だった。この後、このギャグが流行って、学校で街で家で、みんなが真似してくれた。聴覚障害者は、そのギャグに随分と勇気付けられたと言う。
アナの筆談:〈カズのお祖父さんは、カズの目の前で、発作で倒れて亡くなったの。カズは、放心状態で、何もできなかった〉
アナが、笑美に伝えた。
笑美の筆談:〈そんな……〉
アナの筆談:〈だから、医師を目指すの。誰も死なせないって……〉
笑美の筆談:〈素晴らしい先生になれますよね〉
アナの筆談:〈もちろん。命だけでなく、心も治すことができる医師になれるんじゃないかって、密かに期待している〉
笑美の筆談:〈心も……本当ですね〉
アナの筆談:〈障害者にしかできない治療〉
笑美の筆談:〈カズさんに恋しているんですね〉
アナの筆談:〈……ま、まさか!〉
「ハッハハハハ」
カズが、障害病棟に戻って、真っ先に託児所に向かった。託児所では、アナと笑美が、仲良く筆談を交わしていた。
「ああ、カズ!」
アナが、すぐに気付いて、声をかけた。
笑美の筆談:〈ありがとうございます!〉
笑美が、嬉しそうに声をかけた。
カズの筆談:〈あんな手話しか、覚えられなかったけど……〉
カズが、謙遜した。
笑美の筆談:〈十分です〉
笑美が、嬉しそうに答えた。笑美の目は、寝不足と感涙で充血していた。本当に嬉しかったようだ。
一方、笑美の父の容体は、安定していた。
*
泳子が、意識を回復させた。体の負担は、それほどなく、ベッドから起き出すこともできるほどだった。
「アナさんにお礼を言いたい」
泳子が、看護師に頼んだ。
「そうね」
看護師が、アナを探したが、アナは、障害病棟の片付けが忙しくて、泳子に会えなかった。昼には、もうこの障害病棟は、閉鎖されるのだ。
「ごめん、ちょっと今、手が離せないみたい」
看護師が、申し訳なさそうに伝えた。
「そうですか……」
泳子が、寂しそうに答えた。
昼前、政吉が、退院することになって、政吉の妻が、病室へ迎えに行った。アナ、カズ、義助も、挨拶をする為、病室へ行った。
「ありがとうございます。孫も、皆さんの姿を見て、感銘を受けたようで。お祖父ちゃんの味方になるんだって、意気込んでいますよ」
政吉の妻が、アナ、カズ、義助にお礼を言った。
「そうですか。良かった」
義助が、応対した。
政吉は、何も言わずに、障害病棟を後にした。アナ、カズ、義助が、微笑みながら、政吉の退院を祝った。
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